昭和45年09月26日 朝の御理解
御理解 第97節
「神を拝む者は、拍手して神前に向かうてからは、例え槍先で突かれても後へ振り向 く事はならぬぞ。物音や物声を聞くようでは、神に一心は届かぬ。」
私の願いは、そのまま合楽の願いであり、合楽の願いは、そのまま教団の願いであり。教団の願いは、そのまま天地金乃神様の願いでなからなければならんと確信しております。そこで皆さんの願いも、又、私の願いと一つになってまいりませんと、そうした一貫したおかげと云うことになってこないと思うのす。
今、私が願いとしておる、その願いがそのまま合楽の願い、いわゆる、合楽願という事になりましょうね。その合楽の願いは、教団、それをもう少し細かく言うなら、私どもの祖である、九州の祖であるところの桂松平先生の、云うならばこの有難い信心を世界中に広めんと仰る様な願い。しかもその事が成就することの為には、いわゆる、こと神様の事ならば前には進んでも後ろには退かないと云う。
例えば願い、いわゆる槍先で突かれるような事があっても、後ろを振り向く様なことはせんと云うのが、桂先生の願いである。そういう願いを、いわば継ぎ手継ぎ手の先生方が、ひた受けに受けられて、いわゆる私の願いであり合楽の願いと云うことになってきたのでございます。だから、合楽の願いは、そのまま御神願だと云うことが言えるのです。神様の願いだと云うことが言えるのです。
今、合楽で、一日唱えるように言われて居る事は、今迄、過去、二十幾年間の信心を基調とした。それを一つの基本として願っていけと。その願いと云うのは、世のお役に立たせて下さいと云う、その一念。世のお役に立ちたいと云う願いが、そこに世のお役に立たせて下さいと云う祈りになってくる。そのためには、限りない神様の御恩恵を、一人一人の上に現し、それを教会に現し、それを教団に現し、それを世界の隅々にまで、それを押し進め広めて行こうと云う大変な願いである。
そういう願いを願いとしての信心。だから、どうでも願わなければならんのである。昨日は、ここの研修会が、例によってございましたが、もうその願いと云う、最近言われるその願いと云うことが不徹底、みんながよく分かっていない。世のお役に立つと云うことは、どだいどういう事ですか。先生が言われる願え願え、願え願えとこう仰るが、今まで、云うなら和賀心一点張り、和賀心になることに精進焦点を置いて。
いわばほんとに二十何年間、所謂成行きを大切にするとか、限りなく美しゅうなりましょうやとか、所謂様々なその時その時の一つのスローガンにも似た様な信心の全てが、結論すると和賀心と云う事に置かれて居った。そういう例えば教えを頂いてきて居る私達、ですからどの様な問題に直面しても、難儀な事になって来てもです、私が和賀心になればおかげが受けられる事を確信して、和賀心に一生懸命取り組んで来た。
それに急に願え願えとこう言われても、それこそ喉に何かが詰まった様にして、それから先が出てこないと云うのである。まぁあえて名前を挙げて言うならば、昨日森部の高山さんが、その事をこういう風に発表して居られる。親先生これ程しのおかげを頂いてこの様な難儀な事になって居る。この上願いよったら大変だという意味の事を言うて居られます。先生最近の私は、もうここ二十年間に頂いてきたおかげ、云うなら家も蔵も財産も、もう要らんとすら思いよります。
現在私が感じて居る難儀がそこから救われるなら、もう二十年間に受けてきたこのおかげもお返ししたい思いでございますと。それに親先生は願え願えと仰るけども、とても私どもは、願う資格はない。いやもうお広前は、私共の様な無信心者は御無礼しなければならんのではなかろうかとさえ思うとりますと云う意味のことを言うておられます。私はその発言を聞かせて頂きましてね、素晴らしいと思うた。
そこ迄の事が分かっておられる。まあ誰彼とは申しませんけれども、この頃から白波五人男と云う、あのお知らせを頂かれたのがその高山さんであった。本当に私の方こそその第一人。とにかく恐ろしいち言う、おかげを受けた事が。だから形に現れておるおかげは、もうこのままお返ししてしもうてもよい、ここに私共の安楽な道があるならばと云う訳なのである。私は、それを聞かせて頂いてから。
小倉の初代桂先生が教えておられたことを、私も思うてみました。神様がある時に、桂松平先生に、「桂松平、汝が徳を受けて、願いに出て来る氏子になんぼでもおかげを取り次いでおけ」と仰った。「これまでその氏子がお返しが出来んなら、神があの世までも取りに行ってやるからおかげを渡しておけ」と仰った。高山さんはそれを言われるのです。とてもとても、これに願って願ってと仰るが。
願ってこの上におかげをもし頂いたらです。それこそあの世で神様に、借金取りに来られるのが恐ろしいと云う訳なのである。まあついでながら申しますと、桂先生は、ご晩年の頃、こういう事も言うておられますね。「御神徳が小倉の教会に残っておると思うな」と仰っている。もうお徳は受けた、受けたけれども、おかげめが吸い取って仕舞うたとおっしゃったそうですね。
おかげは、御神徳はもうおかげめが吸い取って仕舞うたと仰っています。そういう風に頂いてまいりますとですね、こりゃあやっぱり、いやがうえに、今、合楽で言われておる様な願いは願われない、恐い。折角二十年間、和賀心和賀心でお徳を受けて来た。そのおかげがです、おかげに依って吸い取られて仕舞う。いや信心も出来んのに、もしおかげを頂いて行きよったら、それはそのまま神様への借金になる。
それこそ末が恐ろしい。これ以上の事は願われませんと云うわけである。そこでです私が、今日皆さんに97節を聞いて頂いて居るわけですけれども。97節から98節、99節、百節を、ざっと眼を通させて貰うて、その大意ともなるところを一つ聞いて頂きたいと思う。98節に「心は信心の定規じゃに依って」と仰せられております。98節、心は信心の定規なのだ。そこで今私がです、願え、願いに立つと云うことを言って居ることはです、どういう事かと云うと、何時も絶えず、私の心の上にです。
和賀心に向かっての精進が為されておるか、それは、和賀心ではなくてもです。信心とはもう本心の玉を磨くものだ、日々の改まりが第一だと、成行きは、いよいよ大切にさせて頂いて、そこにです、何時も、定規を押し当ててみてです。はあ自分の信心には、過去二十年間の信心の信心に一分の狂いもない。そういう信心が根底になっておる、基調となっておる。その基調となって居るならばです、まず間違いが無いと云うことなんです。そして願いに、例えば一心を傾けておる。
物音や物声を聞くようでは神に一心は届かぬと仰せられる、その願いに一心を込めると云うこと。私は今朝から思わせて頂きますのにね、合楽の、いわば私の信心がです、段々次々と申しましたでしょう。教団のいわば、いやそれが天地金乃神の願いである。いわば、私の願いはですよ、天地金乃神様の願いと、例えば確信が出来たらです、それはどういう事になるでしょうか。その願いが借金になるでしょうか。
その願いが成就したからと云うてです、あの世までも取りに来られるようなことになるでしょうか。例えばほんならここで私が、御神徳を受けたと致しましても、そういうおかげに依って、桂先生が仰った、おかげめが心の徳は吸い取って仕舞ったと仰ったという様なことになる、もう質が違う性質が願いの。先生が、願え願えと言われるけれども、今まで和賀心と願いよったのがなかなか願えない。
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